少し間があきましたが、続・齋藤隆一編をお届けいたします。笑
初めて勤めたホテルでの私は、バーラウンジで実施していたランチブッフェ営業から深夜のバー勤務まで働き、始発で家に帰っても寝るばかり。
お世辞にも綺麗な働き方とは今は言えない状態でした。
当時は結婚もしていたこともあり、家族にも負担が多くついに転職をしようと決意しました。
ホテル業界では家族を養うための給料としては心許なかった為、今までとは別世界に飛び込み給料優先で転職活動を行いました。
給料がいい会社を紹介していただき、書類審査を通過し、最終面談まで辿り着きました。
しかし、転職活動をしていても拭いきれなかった私のモヤっとした気持ち。
(俺がやりたいことは本当にこれか?給料を稼ぐことが本当に幸せなのか?)
何日も頭を抱える日が続きました。
悩みに悩み、徹底的に自己分析を開始。
SWOT分析、曼荼羅チャートなどあらゆる自己分析を行いました。
その末に行き着いた先、それは
サービス業(バーテンダー)でした。笑
家族を納得させるため、そして、自分自身に縛りと責務を負わせるため、このサービス業界でのしあがる為、私は自分の人生設計を事細かに決めたのです。
・26歳で1回目の転職
・28歳でカクテルコンペティションで優勝
・30歳で再度転職(キャリアアップ)
・33歳で再度の転職(キャリアアップ)
・35歳独立
この目標に対して事細かに、今風に言うとタスクやミッションなどを設定。
私は自分で思い描いた人生をなぞるように、歩み続けました。
ライフスタイルホテルの先駆けであるアンダーズ東京への転職に、偶然も重なりましたが、カクテルコンペティションでも優勝することが叶い日本一位、日本代表に選ばれたのです。
ここから私の人生は180°変わりました。
それまでは話したこともなかった有名バーテンダーの輪に入り、一緒に酒を交わし、名前を呼んでもらえるまでになりました。
他人が考えたレシピではなく、自分でレシピを考え、海外へゲストバーテンダーとして声をかけてもらえる。
ゲストのリクエストのカクテルを提供し、自分のファンが増えていく。
バーテンダーを始めた頃の自分には想像もつきませんでした。
その後、原宿に一号店を構えたTRUNK(HOTEL)に声をかけていただき転職。
ここでは今の自分の型になる生き方を学び、たくさんの最高な人たちと関わり合えました。
カルチャーや生き方へ傾倒することの大切さ、全力で遊び、楽しむことの尊さなど。
濃い時間を過ごしました。笑
30歳、ビバレッジマネージャーとして転職を決めた先は京都。
修学旅行でしか来たことのない地で、なんのゆかりもありませんでしたが、吸い寄せられるかのように転職を決めました。
(今思えば、FUREKのためだったのだなと感じます。)
この先が楽しみと期待に満ちていた時に全世界を襲ったコロナ。
ホテルは開業せど、開けては締め、開けては締めを繰り返した数年間。
使用するはずだったフルーツやハーブがゲストをもてなすことなく捨てられるのが嫌で、いつかゲストを通常通りお迎えできる日の為に”香り”に姿を変えるため蒸留していました。
またコロナ禍では、孤独との戦いでした。
せっかく京都に引っ越してきたのに、飲食店はほぼCLOSE。
出かけることも許されず、お酒なんてもってのほか。
お酒を預かる私の仕事としては、もう言葉にできないくらい辛かったです。
そんなコロナも終焉を迎えつつあった2023年、ホテルもフルポテンシャルに近づき、また自分の35歳になった年でもあるため、独立をしました。
この数年間で特に強くに感じたこと。
”それは、人は一人では生きていけない、当たり前なんて存在しない”ということです。
当たり前に会っていた人に会えない、当たり前に外出していたことが当たり前ではない。
この思いが今の私の原動力の一つです。
FUREKも、水と向き合うカクテルスタンドとしてオープンします。
私達の生活には、水が当たり前のように存在していますが、これも、数々の技術者が関わっているからこそ、きれいなお水が存在するのです。
私達FUREKにもたくさんの方がお越しになると思います。
人と関わること、これも決して当たり前ではない。
小さな気づきかもしれませんが、私達から日本中へ、そして世界へ、“当たり前”に気付く場所の発信地になってほしいと心から願っています。
と、またまた長くなるので、今回はこの辺で…笑